場末の映画館で働く俺の眼の前に現れたのは、線の細い少年だった。神経質そうに眉間にシワを寄せ、うつむいたままだった。
「学生証、見せてくれたら学割にできるけど」
俺の言葉に差し出された学生証には、中高一貫教育の地元の名門校の名があった。中学三年生でもエスカレーター式で上に上がれる学生は、これから加熱する受験シーズンにも関わらずのんきでいられる。自分が高校受験したときのことを思い出したが、すぐに頭の中で打ち消した。結局、あれが人生の最初の失敗だったのかもしれない。希望の高校に行けず、大学にも入れず、浪人しながらそのままずるずるとアルバイトを繰り返し、今ではこうして潰れかけの古い映画館を手伝っている。それも叔父が趣味でやっている映画館を、お情けで手伝わせてもらっている状態だ。
映画になど、いまさら興味はない。つくりごとの世界は絵に描いた餅にすぎない。
おまけにここで上映しているのは全てがモノクロフィルムだ。
3D映画だ、座席の動く体感型映画だ、などと世間が大騒ぎしているときに、白黒でぶっきらぼうな役者ばかりがそろった古い映画など、誰が見たいと思うだろうか。
この映画館の唯一のメリットは、チケットが最新映画の半額以下だということくらいか。名門校の生徒でも中学生のおこづかいだと、こういうところで気晴らしするしかないと思ったのかもしれない。
少年は趣味のいい服装をしていた。襟付きのシャツにはしっかりアイロンがかかっている。
専業主婦の母親、いいところに勤める父親、兄弟はいないか、いたとしても一人くらいか。
きっとこの子は名門校を出て、都会の一流大学に入って、良い企業に就職して、生きていく。3D映画のようにリアルでビビッドな人生を歩み、日本の経済を動かす一人になるのだろう。
そのきらきらした人生を歩み始める直前のちょっとした生き抜きのために、ここに来ているのだ。受験シーズンだというのに。
さびれた映画館でもぎりをしている自分とは大違いだ。
そう考えると自分の人生がモノクロフィルムでしかないことに気づき、神経が波立つような苛つきを感じた。今さら3Dにあこがれることもないが、自分の人生がモノクロフィルムだと突きつけられるのはつらい。
「あまり面白くないと思うよ、きみには」
彼は俺の声に怪訝そうな顔をした。
「白黒だしさ。それに公開されたのは戦後直後だぜ。今の映画とは全然違うよ」
今とは社会背景も異なる、何せ異国の話だ。現代の子どもに共感できるところがあるとは思えない。現に、もう何度も観た俺だって面白いとは思えない作品だった。
「先生に、勧められたから」
彼はぽつりとつぶやいた。
ふうん、と俺もつぶやくように返す。
先生に言われたから。そんなおぼっちゃんらしい答えすらも、俺の神経を逆なでにした。
まあ好きにすればいい、金を払うのは本人だ。
決して長い作品ではないが、お世辞にも快適とはいえないうちの映画館のシートで白黒映画を観続けるのは、ある種の拷問だ。もしかしたら途中で投げ出して出て行くかもしれない。そうなったらそれみろと笑ってやれ。心のどこかで意地悪く考える自分がいた。
映画はただだらだらと続く。主人公が困難を乗り切って成功するがさらなる困難がやってきて、そしてその困難をも乗り越える。陳腐なサクセスストーリーだ。
うんざりする内容だったが、このフィルムもあと数日で返却することになっていた。あまりに古い映画なので客もそう来ないだろうから、ゆったりもぎりをやっていればいい。
俺はカウンターの椅子に腰掛け、そこに置いてあった映画雑誌をめくった。
映画のワンシーンと映画評論家のコメントが並ぶ。
それすらも俺にはまぶしすぎた。
予想に反して坊主は最後まで観客席に座り続けた。クレジットの最後を見計らって一つしかないドアを開けても、なかなか出てこなかった。
映写技師のガクさんが映写室から出てきたころになって、ようやく彼は客席を立ち、俺たちに軽く会釈して出て行った。
「いいねえ、あの年齢でこの映画の良さがわかるたあ、感心だ」
「わかってねえと思いますよ。しょせんは中坊だ」
映画のなんたるかをまったく理解してないおまえが言うかね、とガクさんは嫌味を言った。
そっすね、俺はどうせ映画とは相性悪いっすからね、と口の中でもごもご言いながら、俺は劇場の清掃に入る。年期の入った劇場内はいかにも古ぼけていて、なんだか悲しくなった。
坊主は翌日の上映にもやってきた。そしてその翌日も、その翌日も。
「やっぱりわかって観に来てんだよ、あの子はさ」
映写室で昼飯を食いながら、ガクさんは満足そうに言った。
「これはさ、ハリウッドでも伝説的な作品なんだ」
「どこが伝説的なんすか。古くさい宗教映画じゃないすか。ご都合主義ばかりで、こんな映画なんて今どき流行らねえっすよ」
「これだからおまえは」
ガクさんがあきれたように言う。
「そりゃ、こんな映画館でお手伝い程度にもぎりやってる俺が言うことじゃないっすけど、やっぱ映画は儲かってなんぼですよ。金にならなきゃ、映画じゃない」
金を払う人たちがいて、それが噂になってさらに人を呼ぶ。興行収入が上がる映画は多くの人に観てもらって、共感を得ている映画だ。明るくて哀しくて、スリルがあって、わくわくして、びっくりするようなラストをむかえる。それが映画だ。
「おまえはやっぱり映画からもっと離れるべきだな」
ガクさんがぽつりとこぼす。その言葉で、俺の心がちくりと痛んだ。
昔はもっと楽しく映画を観ていた気がする。友人たちと日曜に待ち合わせて話題の封切り映画に入ったこともあるし、父親と二人で古い映画を観に行ったこともあった。そのうち映画制作の現場でアルバイトをするようになったが、情熱だけでは食べていけない世界だと身をもって知ることになった。映画のことを知り尽くし、とにかく好きでいなければ、あの世界で生き残ることはできない。
「結局、あんたは映画を好きじゃないだろう」
ある助監督から言われた言葉が決定打だった。俺が求めていた映画像と実際の泥臭い現場とでは、何もかもが違いすぎていた。好きでもないことを仕事にするヤツは多い。だがあの業界は別だ。映画に携わる人間は、本当に映画が好きでやっている。そうそう予算がつかないうえに、生活も不安定だ。アメリカの映画産業のような強い組合があるわけでもない。それでも人生の全てを映画に捧げることのできる人だけが、続けられる仕事だ。
そんな中で嫌嫌やっていると思われたら、さすがに仕事を続けづらくなった。
結局、夢やあこがれだけで生きることなんてできない。
俺は映画産業を離れ、いくつかのアルバイトを転転とし、そしてこの街に戻ってきた。
戻ってきたところで仕事なんてない。ぶらぶらしているなら、と叔父にあてがわれた仕事がこれだ。
だがここでも、映画から離れろ、と言われる。
とことんまで映画に嫌われているのかもしれない、と俺は薄く笑った。
「学生一枚」
顔を上げると、あの坊主がいた。
「また来たのかよ」
「今日がラストだから」
「こんなつまんねえ映画、何度も金払う価値ないだろ」
チケットを渡しながらつぶやく俺の言葉など耳に入らないかのように、坊主は劇場に入った。
隙を見て俺は映写室に入る。
「五回目だね」
「先生から勧められたとか言ってたけどさ、よくそれで五回も来るよ。感心する」
「映画には、魔力があるのさ。特にこういう白黒映画はね」
ガクさんは嬉しそうに笑う。
いつもはぶっきらぼうな人だが、映画の話をしているときは本当に嬉しそうな顔になる。
映画全盛期に毎週末のように映画館に足を運び、人生の全てを映画に学んだというガクさんは、退職してから映写技師になった。その頃にはもう映画館は斜陽になっていたが、それでも映画に触れていたいと望んだのだ。どこででも上映できるようにと、わざわざ電気技師の資格を取り、この映画館に再就職した。ほとんど給料など払えないし、最近はDVD上映が主流だからそこまでの技術者は必要ないんだが、と断る俺の叔父に、給料なんて要らないからと頭を下げたという。今では休みの日でも請われれば出張して、上映する。映画産業の末端を支える、今どき希有な人だ。
流されるままに何も考えずに映画に携わり、金こそ映画のすべてだと思っていた俺とは大違いだった。
ガクさんの言う魔力という言葉に、やはり俺は映画のことなど何もわかっていないのかもしれない、と思った。俺はそんな魔力なんて、映画に感じたことすらないのかもしれない。
物語は終盤にさしかかっていた。自殺しかけた主人公は、天使に助けられる。そして街の人たちの祝福を受け、人生は素晴らしいと実感する。
何度観ても、この作品に魔力があるとは思えない。すべて主人公のいいように話が進む。そう何でも簡単に事が運ぶわけはない。
古びた階段を降り、俺は入口を開けた。坊主がそろりと出てくる。
俺の前でまた会釈をした。
「五回も観ればじゅうぶんだろ。先生にもしっかり報告できるだろうしさ」
もうこの坊主と会うこともないかもしれない、と思うと、少し会話をしてみようと思った。俺の人生と違う、3D映画のような人生を歩みかけている坊主が、こんな古くさい映画のどこに惹かれたのか。
いや、この映画のどこに惹かれのか、他と比べて安いとはいえ、五回も入場料を払うほどに。それを具体的に知りたかったのかもしれない。
映画の現場にいても、俺が感じることのできなかった魔力を。
「報告とかじゃなくて・・・・・・」
彼は言いよどむ。
俺はロビーにある小さな自販機でコーヒーを二つ買い、坊主に一つ渡した。
「悩んでいたんです、このまま同じ高校に進むかどうかを。それを先生に相談したら、この映画を観たらいいって言われて」
「おまえんとこさ、エスカレーターだろ。何を悩むんだよ。高校受験なんてしなくてもいいんだろう」
良い人生を歩むために敷かれたコースだ。わざわざ自分から外れることなんてない。おぼっちゃんが甘ったれるなよ、と言いたくなる気持ちをコーヒーと一緒に飲み込んだ。
「好きな人がいて、その人はこのまま高校まで進むって言うから・・・・・・」
なんだよ、お子様恋愛相談か、と思って彼の顔を見ると、真剣なまなざしで足元を見ていた。
飲めよ、と言うとおとなしく缶コーヒーをすする。
「たぶん、僕の思いは伝わらないんです。だから一緒にいても辛いだけだと思うと、やっぱり他を受験しようかなって思って、先生に相談したんです。好きな人のこととかは言わずに、他の学校も経験してみたいから、って」
「五回も観て、何かわかったのか」
「僕も、残ることにしました」
彼は顔を上げた。
「高等部になると外部生も入ってくるから、ライバルも増える。僕のことなんて見向きもされないかもしれない。でも、今いるところで精一杯の努力をすることも大事なんだって思いました」
口元を引き締めたその表情は、最初にここにやってきたときとは明らかに違っていた。
声にも力があった。
そうだ、主人公はあの小さな町から出て行かない。世界を飛び回ることを夢見て出て行こうとするのに、いろんな要因が彼を阻む。そもそも、彼の人生は小さい頃から受難続きなのだ。そんな自分の境遇にくさらず、何が起きても前向きに努力する。
たしかに、先生が彼に勧めた理由も理解できた。
「明日、先生にこのまま残るって伝えます。コーヒー、ごちそうさまでした」
彼は一礼して、映画館を出て行った。
「この場で精一杯の努力をすることも大事、か」
学校も、小さな世界だ。私立だし、規模もそう大きくはない。それにあそこは男子校で、異性がいないぶんだけさらに閉ざされている。
そこで、はっとした。
男子校。そうか、坊主が好きなのは男だったのか。
中学生で目覚めるのは、そしてそれを自覚するのは、それなりに勇気のいることだ。ハードルも高いし、決意もいる。周りの視線におびえることだってあるだろう。
その大きな決意をするための、五回だったのかもしれない。自分と向き合うための、そして自分の生き方を決めるための五回。
ご都合主義のくだらない宗教映画だと思っていたが、やっぱり俺は映画のことなんて何もわかっていなかったのかもしれない。ガクさんや助監督が言うように。
「魔力、あったろう」
振り向くとガクさんが立っていた。ふわりとした笑顔だった。
映画に嫌われてるんじゃない。俺が映画に歩み寄らなかっただけだ。
この映画館で、できる限り映画の勉強をしてみよう。もう一度、映画に触れることで何かできることがあるかもしれない。
興行収入だとか、3Dだとかにこだわらず、映画そのものを楽しみながら、末端でもいいから映画人の端くれでいよう。
俺は手にした缶をゴミ箱に投げ入れて言った。
「魔力、すげえっすね」